2020/06/01

キラーギロチン 「ブライトネス・ビーイング」



キラーギロチン「ブライトネス・ビーイング」

2020年4月26日~2020年5月30日 宮城県石巻市 ART DRUG CENTERにて行われた展示「ブライトネス・ビーイング」で発表した映像作品です。




https://www.youtube.com/watch?v=WcUlsVNkez0&feature=emb_logo



ブライトネス・ビーイング

 人々は豊かな生活と引き換えに,どこかに多くの犠牲があることを忘れている。
 室内の照明はもちろん、自販機の明かり、道路を照らす街灯や車のヘッドライトが無ければ、人々の夜間の活動はままならないはずだ。それらが集まることで生まれる都市の明るさは人間の生活の豊かさを象徴している。生活の豊かさとともに、都市の明るさは増していく。都市の明るさは星空を侵食していく。

 本展示では豊かさに伴う都市の明るさが、夜空からどれだけの闇を侵食していくかを表現した。

 星々が消えていくことに気が付いている者は果たしているのだろうか?
―― キラーギロチン


イントロダクション・オブ・ブライトネス・ビーイング

 キラーギロチンはこれまで「超ハイウェイ・シリーズ」や「テトラポッド人間」といった作品を通して、“誰からも見られていない何か”を人々の眼前に差し出す制作をおこなってきました。前展「アブセンス・オブ・アウェアネス」において提示された意識の外側に存在する人工構造物に対する視点は、人新世的アニミズム、人身世的シャーマニズムとしても捉えうる、新しい人間の芸術表現ではないでしょうか。

 人新世(アントロポセン)とは、オゾンホール研究でノーベル賞を受賞した大気化学者パウル・クルッツェンによって考案された「人類の時代」という意味の新しい時代区分です。 人類が地球の地質や生態系、気候などの環境に大きな影響を及ぼす時代になったことを表すこの言葉は、一見、人間中心主義的な言葉に思えるかもしれません。
 しかし、人新世によって語られる視点は、人間の終末と世界の終末とを同一視するような情緒的・終末論的な側面をもつ1960~70年代の環境保護思想とは違い、人類が誕生する前も人類が絶滅した後も、地球は地層の堆積を続けるであろうことが含意された、人間活動と地球環境の関係をできるだけ客観的に巨視するものです。

 1909年、産業革命以降の封建社会から資本主義社会への転換期において、イタリアの詩人フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティは「未来派宣言」を発表し、新しく訪れる機械文明や産業社会を賛美しました。人間と、人間が生み出す世界に新たな芸術を見出し、世界の中心的存在として退屈な芸術を打破せんとしたのです。
 111年の時を経て、かつての輝かしい未来は新たな退屈な現実になってしまいました。世界の中心的存在になろうとした人類は、自らも気づかぬうちに本当に周縁的存在から事実上の中心的存在へと担ぎ上げられてしまったのです。

 人新世、という言葉に込められたのは、人類による新しい世界、という未来への展望ではありません。むしろ周縁的存在であるにもかかわらず事実上の中心的存在となってしまった人類の自戒ではないでしょうか。

 人新世におけるキラーギロチンの芸術活動は、周縁的存在として自覚的になりながら、中心的存在である地球環境に目を向けることによって生み出される感情と行為であると言えます。ここでの地球環境とは、森や海や星空といった自然環境のみならず、もはや自然となってしまった人工物も含まれる環境です。
 本展「ブライトネス・ビーイング」においてキラーギロチンが着目したのは2つの美しい発光体です。

 1つめの発光体として描かれるのは街灯をはじめとする都市の明かりです。夜間の人間活動を支え利便的生活の豊かさを象徴する都市の明かりは、しかしときに光害とも呼ばれます。
もう1つの発光体として描かれるのは、変わらず人類の影響圏外に実在するにもかかわらず、光害によって人々がその存在を認識することが難しくなった星空です。

 都市の明かりの侵食によって人々にとっての自然環境として希少価値を増す星空と、星空を侵食するほどもはや身近な自然となり人々の意識から外されてしまった都市の明かり。
 外出が自粛されているいまだからこそ、人間活動にかかわらず恒常的に光り続ける2つの発光体の関係を1つの地球環境として、周縁的存在である私たち人類は捉えなおすことができるのではないでしょうか。
――キラーギロチン キュレーター ナカヤケイスケ