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大好評により会期延期!!~~2020. 7.12.(日)まで。
O JUN展 桃のある遠景ー 1990 年の仕事からー守章(ADCディレクター)企画:
6月27日(土)16時より
!O JUNさんによるパフォーマンス「7億8840万900秒後の此処」決定!。
<注>6月27日(土)より展示内容が変わります。
「誰かについて、当てにならない記憶について、腑に落ちない時間について、勇み足について」
守雅章さんと守喜章さんの二人がウチに来て、僕のアトリエで撮影をさせてくれないかと言った。25年前の話だ。僕はドイツから5年ぶりに帰国してまもなくで職もなく、かといって制作をしていたわけでもなく日がなぶらぶらしていた時だった。二人にも久しぶりに会えたしどうせアトリエは開店休業状態だ。すきにやってくださいということで撮影に入った。アトリエのシャッターを閉め、中は守さんたち二人だけだ。時々外に音が漏れる。話し声の合間にドスンとか、ぴしゃっとか、ため息のような息づかいも聴こえる。だいぶ経ってからシャッターが開き、中から二人が出てきた時はもう黄昏時も過ぎていた。闇から夜へ、僕には二人の顔の判別がよけいむつかしくなっていた。
映像は暗闇の中で全裸の二人が背中合わせで支え合って腰かける姿勢―そう、部活のシゴキの“電気椅子”の格好―でいる様子がえんえんと映っていた。しだいにお互いの背中にかかる力の均衡が崩れ出し、揺れはじめズレが起きそれを戻そうとまた体勢を立て直すもついには力尽き崩れるまでの映像だった。シンメトリックに映る背中合わせの二人の距離は近くて遠い。昨年久しぶりに二人にそれぞれのタイミングで再会した。兄弟は当時に比べてそ互いにその外形を変えていた。あの作品がもしも今であったら、あるいはどちらかの相手が別の誰かであったら“他者”を容易に呑みこめたろう。そんな“つもり”になっただろう。でも、他者も境界もあの映像のなかにそのままおいてけぼりを喰っている。なのでそれをみる僕らは実はなんだかしめしがつかないでいる。二人にしたらその思いはもっとだろう!あの映像作品「AM」はだからやっぱり記念品だなと思うのだ。
「桃のある遠景―1990年の仕事から」は、守章(雅章・喜章)が企画してくれた。僕はかつて、西江雅之という文化人類学者から少しだけご縁をいただいていた。僕が19の歳から彼の亡くなる2015年までの間だ。いつもこのひとの言葉に目を開かされた。手持ちの作品と以前から西江さんのレクチャ―や展覧会を企画した双ギャラリーの塚本さん(僕もかけだしの頃たいへんお世話になったギャラリストだ)から作品をお借りしてやりましょうと企画してくれたのだ。昨年12月にその打合せで石巻に行った。アートドラッグセンターにお邪魔して、そこでずいぶん久しぶりに有馬かおるさんにもお会いできてうれしかった。近くのスペースで若い作家たちの展示も観れた。展示空間を見て、だいたいの話をしたあたりから僕は悪寒がしていた。その後の飲み会で震えがきて早々にホテルに戻ったのだ。夜中、高熱が出てものすごい悪夢にうなされた。翌朝ほうほうの体で東京に帰った。インフルエンザだった。病院で処方された薬はアビガンだった。コロナワクチンがまだできない現在、この感染症に効果はあるから使用認可を出せ、出せないとか言っている薬だ。おかげでインフルエンザにはすぐに効いた。旧作と新作を一点用意して送った。悪いことは重なるもので足の具合もひどくなって歩行がままならなくなった。そこへ来て入試、コロナと追い打ちをかけられた。搬入にもオープニングにも来れなかった。すべて守さんとスタッフや彼の知り合いの人たちの世話になった。この間に僕は足の手術をして、この厄災は世界を一変させた。守さんは展覧会の会期を延ばしてくれた。おまけに長い休校で充分足のリハビリもできた。これは行くしかないでしょう。行って見て挨拶だけってのはひとでなしだ。仁義に悖る。守さんに、壁に描かせてくださいとお願いした。守さんは、どうぞと二つ返事で快諾してくれた。どこかで憶えがあるな…と思ったらそうか、25年前の逆じゃないか。それならいっそAMの壁に描かせてくださいとなってこの日を迎えるのだ。この25年の月日は彼らも僕も風景もみんなを変えた。そのなかに、守兄弟と西江さんと僕も変わり果てながらいた。きょうだけは此処に集合してもらおう。僕は、西江雅之を横目に、守章の壁にむかって一歩踏み込んでみよう。場所にも記憶にも時間にも勇み足をしてみよう。
2020年6月4日
O JUN
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